私が考える多様性
~おことわり~
これはあくまで現時点での私の意見であり、SnapShot的意味合いが強いものです
心理療法士だったかと話したときに"多様性"について話題が上った
その人の話を聞いたとき、私は多様性を誤解している人が多いのではないかと思うに至った。
SDGsが2015年9月に国連総会で採択されるとそれが指標となってメディアや価値観も変わっていった。これは良い傾向だったがその変化のスピードは遅く、私の周りの人は3年後の2018年にやっと人から教えてもらって知ったという次第だ。
自分が思っているよりも浸透は遅かった。また浅はかな解釈で誤用する人も多かった。
その一つが多様性だ。多様性多様性うるさくて仕方がない。それまで人を叩いたり論破したような気分に浸ることを生きがいとする奴が手のひらを反すようにSDGsという尺度を手に入れ、優等生よろしく多様性多様性と叫び始めた。
いいかよく聞け。
強いものが権力を誇示することと同等に弱いものがその弱さから叫ぶことも同等に恥ずかしいことである。ラウドマイノリティははっきり言うが、極端過ぎて不快だ。わがままと表現してもいいだろう。
私も数年前は尖っていて、社会世界に対して常に怒り、不満を持っていた。
でも大人になって社会世界の中で生かせてもらっているという実感と責任を取りたくはないけれど社会に対して責任を負う立場であるという事実を前に
どうにか集団と折り合いをつけて(どこかでPayできるならそれがいい。一方的すぎるのもまた酷なわけだから)嘘をついていかなければならないと気づいた。
警察や公安を見ろ。全員が全員100%正しい道徳、正義感で動いているわけではない。もちろん情熱的100%であれば素晴らしいが、天下りや不祥事、告訴状を受け取れないなど、不道徳な面が多く見える。それは私の価値観がグローバル目線であるからだが、多様性とはそのような目線を常に持っておかなければならないと思う。
いまだにラウドマイノリティを見かけるのだかはっきり言えばダサいし、新興宗教と大差ない人間だ。新興宗教を馬鹿にして悪いが、これももちろん全部ではないが白人至上主義のテックファーストなやつらとあまり変わりない。
話を戻そう。私は日本で疑問を持ちながらも(朝日新聞にはるかぜさんがいじめ問題について寄稿していたことなぁ)義務教育を受けた。そこで染みついてのは
自分をわかってもらえない苦しみ
だ。だがこれは当たり前だ。基本的に人は傷つくことを嫌がるし、見たくないものは見ない。傍観者であり続ける。私のように運悪く"メテオのように"降りかかった災難や自ら選んだ過ちの数々は普通の人は経験しえない。
わかってもらおうという期待がそもそもの間違いで、共感を期待して人に話すのもNGだ。私は傷ついた分、自分がものすごく弱ったび分、そして観察力に長けている分、共感力はあると思う。だがそてを表に出すかは別問題だ。
とにかく共感よりも尊重が多様性を語るなら重要だと考えてほしい。
なんかいろんな人が混ざっていいよねー じゃないんだよ
人様に迷惑を掛けなければ基本的に気にしないというルールを守るべきだと思う
まぁこの辺は日本という風土では難しいだろうが。
どこですり替わったんだろうか、日本の和は。
それともそんなものもともと幻想で薄っぺらい魅力的な空箱に過ぎなかったのだろうか。。